日米欧のアマチュア無線の歴史 


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本章の目次
1800年〜    1900年〜    1910年〜    1920年〜    1930年〜    1945年〜    1960年〜    1970年〜    1980年〜    1990年〜    2000年〜    トップページへ
◆1753年
 欧州在住のチャールズ・モリソン(Charles Morrison)が静電気による電信システムを考案して発表。このシステムはライデン瓶(蓄電器)や26本の絶縁ワイヤーを用いていた。

◆1791年
 この年の4月27日ごろサミュエル・モールス(Samuel Finley Breese Morse)が米国マサチューセッツ州で誕生。
ありし日のモールス

Illustration by American Memory Library of Congress

◆1807年
 アルフレッド・ベイルが誕生、サミュエル・モールスを助けて現在のモールス通信の基礎を築いた。1859年に没する。

◆1820年
 電鍵デザイナーのジョージ・フェルプスが米国ニューヨーク州トロイで生まれる。

故人をしのぶ。


by John Casale


◆1832年
 同年10月、サミュエル・モールスが欧州から米国へ向かう大西洋上の客船シュリー号で、乗客の一人であるボストンのジャクソン博士から「実験によれば、電線がいくら長くても電流は一瞬で伝わる」という話を聞く。この一件が後にモールス符号通信の実現につながった。
◆1837年
 サミュエル・モールスがモールス符号を用いた印字電信機を開発。
◆1844年
サミュエル・モールスらが5月24日にアメリカ東海岸のワシントンDCとボルチモアの間で通信実験をおこない、成功した。
◆1850年
このころから1880年にかけてストレートレバー・キー(レバーが真っ直ぐな縦振り電鍵の総称)が製造された。今でも愛用者が多い。
◆1857年
 ドイツの物理学者のハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz)が誕生。1894年に没するまでに無線通信の基礎を築いた。 故人をしのぶ。
◆1864年
スコットランドの理論物理学者ジェームズ・マックスウェル(James Clerk Maxwell:1831〜1879年)が古典電磁気学を完成させ、電磁波の存在とその伝搬速度を理論的に証明した。
◆1865年
フランス・パリで世界最古の国際通信機関、万国電信連合(International Telegraph Union)が設立された。後のITU(国際電気通信連合)の母体となり、140年以上も激動の通信界の国際的なとりまとめ役となってきた。この間、有線通信、無線通信、宇宙通信、インターネットなど数々の難問をクリアしている。


by The Rock Radio Experience England


◆1870年
 1870年ごろから約20年間ほどイタリアの郵便局で使われていた電鍵や紙テープ式の巻き取り器などのセット。


© IK6BAK

1870年ごろアメリカ人のジェス・ブンネル(Jesse Bunnell)がブンネル社を設立。


◆1872年
この年、サミュエル・モールス(Samuel Finley Breese Morse)がサイレントキーに。
◆1874年
マルコーニがイタリアで誕生。1937年に没するまで無線電信の普及に努めた。

© The Nobel Foundation
◆1875年
このころルイスキーというスパークキーが米国イリノイ州シカゴのウエスタンエレクトリック社に納入される。
◆1881年
ジェス・ブンネルがトライアンフ・キー(Triumph Key)の特許を取得、製造を本格的に開始した。ブンネルは南北戦争(1861-1865)の間、エイブラハム・リンカーン大統領の元で電信技士として活躍した経歴の持ち主であった。鋼鉄で作られたレバーは酷使しても緩むことなかったため圧倒的な支持を得て、1881年以前のハンドキーを駆逐するほどの勢いを持った。
このタイプの電鍵は1881年から今日に至るまでに数十万個も生産されるという大ベストセラーとなった。
このため、1881年以前の製造の電鍵は残存数が少なく、欧米の電鍵コレクターたちは1881年以前の電鍵のコレクションに熱を上げている。

トライアンフ・キー

© W1TP


◆1888年
ブンネル社が「サイド・スワイパー」(Bunnell Double Speed Key "sideswiper")を開発した。これが電鍵史上初のパドルだとされている。これは後に特許を取得した。

サイド・スワイパー

© W1TP

ヘルツが2つの電極の間に高電圧の交流を流して火花を飛ばせて電磁波を発生させる実験に成功、それまで未知だった電波通信への道を開いた。


◆1890年
 電鍵メーカーのバイブロプレックス社が米国で設立された。
◆1895年
このころから1920年代にかけての初期の無線電信時代に「スパークキー」が使われ始めた。電鍵は高電圧回路に直結されていたため、モールス符号を打鍵すると、実際に接点からスパーク(火花)が飛んだため「スパークキー」の名がある。
◆1897年
 マルコーニが英国ロンドンで無線電信会社を創業、後にマルコーニ無線会社へ。
◆1899年
マルコーニが、電信でイギリス海峡横断の通信に成功(世界初の国際無線通信)。
◆1901年
12月12日、マルコーニが電信で英国コーンウォール州ポルジューと、カナダ東海岸のニューファンドランド州の州都セント・ジョンズとの間で大西洋横断の通信に成功。この歴史的な成功の日、マルコーニは受信基地を置いた港町のセント・ジョンズにいた。気球につられて大型の凧がアンテナ(183m長の導線)を引きながら上昇した。 ポルジューに設置した送信機はカナダ東部時間の午前11時半からモールス信号の「S」(・・・)を打電していた。12日正午から受信に入ったマルコーニは、強い風音に悩まされながらも、30分後に電話用の受話器から「・・・」の信号音を聞いた。
◆1902年
 一説によれば、この年、米国でアマチュア無線がスタート。
◆1903年
 ホレイス・マーチンがバイブロプレックスのバグキー(バイブロプレックス・オリジナル)をデザイン。翌年1904年に最初に特許を取得。ホレイス自身も愛用したという。


 © ARTIFAX BOOKS


◆1904年
英国の物理学者ジョン・フレミング(1849〜1945年)が真空管(二極管)を発明した
英国で電波の有効利用のための無線電信法が施行された。
◆1906年
第1回国際無線電信会議(ベルリン)で「SOS」を国際遭難信号に採用。

◆1910年
この年か、またはその数年後、アマチュア無線がモールス符号を使った形式でスタートした。
この年、
「オーストラリア無線協会」(WIA:The Wireless Institute of Australia )が世界初の無線協会として発足した。
◆1912年
アメリカ合衆国政府が無線法(Radio Act)を施行、アマチュア無線従事者免許の発行を開始、周波数1500kHz以上の一部を割り当てられる。
4月14日、英国の豪華客船、タイタニック号(46,328総トン)が北大西洋上で氷山に衝突して史上最大の海難事故を起こした。衝突から2時間40分後に沈没。この間、SOSとCQDの二つの救難信号が打電されたが、不幸にもこれがモールス通信史上で最も有名なSOSとなった。乗っていた2,208人のうち1,513人が死亡したのである。

タイタニック号の無線室で用いられていたキーと同じ形をした復刻品

 © Kent Engineers


◆1913年
歴史と伝統で有名なRSGB(Radio Society of Great Britain:英国アマチュア無線連盟)の前身となった「ロンドン・ワイヤレス・クラブ」(London Wireless Club)が1913年7月5日に設立された。同年10月10日、「ワイヤレス・ソサエティ・オブ・ロンドン」(Wireless Society of London)と名称変更し、初代会長にキャンベル・スゥイントン(A.Campbell-Swinton)が就任した。そして1922年、「RSGB」と名称変更し、現在に至っている。
◆1914年
1914年5月、米国内の大勢のアマチュア無線家たちを束ねるため、米国コネチカット州ハートフォードの有力者、ハイラム・マクシム(Hiram Percy Maxim、1869〜1936年)(最初は1AW、後にW1AW)がARRL(米国無線中継連盟)を設立した。ARRLが発行した無線局リスト(List of Stations)の収録局数は400局だった。1世紀近くを経たいま、全米に約152,000人の会員がいる。
 第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)が勃発。世界中の戦線でモールス符号による暗号や信号が飛び交って情報戦を闘う初の大戦となった。

第一次世界大戦で航空機に乗せたJ-6エアクラフト・キー

© W1TP


◆1915年
米国ARRL(米国無線中継連盟)による機関誌「QST誌」が創刊された。
◆1917年
スーパー・ヘテロダイン受信方式を米国のエドウィン・アームストロング(Edwin Howard Armstrong、1890〜1954年)が発明。
◆1919年
米国マルコーニ社が同GE社に買収されてRCA社となった。
◆1920年
世界で初めて公式に女性アマチュア無線家がYLと呼ばれた。このYLさんは、M. Adaire Garmhausenといい、世界初の女性アマチュア無線家ではないものの、世界で初めて公式にYLと呼ばれた人物だ。この女性への手紙の中で彼女をYLさんと呼んだのは当時のARRL誌のエドウィン・アダムス氏だった。
◆1922年
有名な
RSGB(Radio Society of Great Britain:英国アマチュア無線連盟)が発足した。最初の母体は「ロンドン・ワイヤレス・クラブ」(London Wireless Club)が1913年7月5日に設立され、同年10月10日、「ワイヤレス・ソサエティ・オブ・ロンドン」(Wireless Society of London)と名称変更し、初代会長にキャンベル・スゥイントン(A.Campbell-Swinton)が就任した。そして1922年、「RSGB」と名称変更し、現在に至っている。
浜地常康(東京・京橋の発明研究所)日本初の個人私設実験局の免許を取得、日本初の無線雑誌「ラヂオ」を発刊。
◆1923年
1MO(米国)と8AB(仏)が大西洋を隔ててアマチュアとしては初めて双方向交信(2Way QSO)に成功。
◆1924年
英国の物理学者エドワード・アップルトン(1892〜1965年)が実験により地球の大気の上層に電離層が存在することを証明した。
無線實驗社が雑誌「無線と實驗」を創刊。
◆1925年
J1AA(逓信省岩槻無線局)が3.5MHzのA1でU6RW(米国)との交信、初めて海外と短波通信に成功した。
4月18日にフランスのパリ大学で開かれた結成総会でIARU(国際アマチュア無線連合)が設立された。4月18日の日は、2005年に結成80周年を記念して「世界アマチュア無線の日」とされた。なお、戦後の日本にアマチュア無線が復活した事を祝う「アマチュア無線の日」は毎年7月29日である(制定は1973年)。
梶井謙一(後のJA1FG、JARL初代会長)と笠原功一(3AA、後にJA1HAM)が大阪・神戸間を中波の1000kHzで交信に成功。
◆1926年
JARL(日本アマチュア無線連盟)が会員37人で発足した。このとき世界に向けて打電した「JARL設立宣言文」は「We have the honor of informing that we amateurs in Japan have organized today the Japanese Amateur Radio League. Please QST to all stations.」(本日、われわれ日本のアマチュア無線家たちによりJARLが結成された。これを宣言することを名誉に思う。このことを全局に告げるようお願いする)だった。
日本初のコールブック「CALL LIST」が29局のコールサインを掲載して配布された。
◆1927年
バーバラ・ダン(G6YL)が4月14日にイギリス人女性としては初のハム免許を取得した。バーバラはヨーロッパ初のYLである。
JARL初の機関誌「無線之研究」が発刊。逓信省が通達で一般の短波受信を禁止。
◆1928年
東北帝国大学の八木秀次教授と宇田新太郎講師が開発した「八木・宇田アンテナ」の論文が連名で出された。
◆1929年
日本の本土などのコールサインが改変され、エリアごとに「J1〜J9」が割り当てられる。同時に波長表示が周波数表示となり、アマチュア無線バンドは1.75MHz,3.5MHz,7MHz,14MHz,28MHz,56MHz(いずれも出力10W以下)が割り当てられた。
◆1930年
 1930年代からイタリア軍が製造し始めた軍用の電鍵内蔵無線機「RF1」。ローマのO.M.T. (軍事通信機器工場)が生産した。後にタンク搭載のための無線機としても用いられた。


© IK6BAK


◆1931年
JARL第1回全国大会が名古屋で開催(30数人が出席)。
◆1932年
杉田倭夫(J1DN)が日本のアマチュア無線家として初めてサイレント・キーに。
◆1933年
アイオワ州でアーサー・コリンズ氏(Arthur Collins)が Collins Radio Company 社を創業した。
アメリカ人のリチャード・バード提督(Richard Evelyn Byrd)がコリンズの無線機を用いて南極探検に成功した。
◆1934年
2月13日、旧ソ連の蒸気船「チェリウスキン号」が北極海で流氷に押しつぶされて沈没した。「RAEM」はこの船のコールサインで、この船に主任無線技士として乗り組んでいたのが
エルンスト・クレンケルだった。エルンストは極地探検の功労で「ソ連邦英雄」の名誉称号を与えられ、またRAEMのコールサインも引き継いだ。
◆1935年
斯波邦夫氏(J2HJ)が「28MHz WAC」を達成、世界で3人目。
◆1936年
ARRL初代会長のハイラム・マクシム(1AW、後にW1AW)がサイレント・キーに。
DASD(ドイツ・アマチュア無線連盟)がベルリン・オリンピックと創立10周年を記念してコンテストを開催。
◆1937年
ARRLがDXCCを制定、QST9月号やJARLニュース9/10月合併号で発表。
◆1938年
堀口文雄(J5CC)が日本人初のDXCCとWASを達成。同年、大河内正陽(J2JJ)も達成。
◆1939年
 9月1日、第二次世界大戦が勃発。
 1930年代後半に製造され、イタリア軍の通信隊が使っていたOMPキー。主要部品は亜鉛・アルミニウム・マンガンの合金で製作されている。ムッソリーニ独裁と大戦の時代は、一般的に武器の素材は鋼鉄と黄銅だった。

© IK6BAK

◆1940年代
赤道横断伝搬(TEP:trans equatorial propagation)が立証された。軍とアマチュア無線家がVHF帯の電波で、地球の南北を縦断して交信でき、逆もまた同様に赤道を横断して交信できることを発見・立証した。
◆1940年
 ハリー・ビーチャー(Harry Beecher、W2ILE)が米国QST誌4月号に「電子キーイング」(Electronic Keying)を発表した。内容は:
「モールス符号をON/OFFする電子キーイングのメカニズムは(バイブロプレックスなどの)バグキーを一部だけ改造すれば足りるが、短点側の接点に接触する機械構造は、バグキーのように振動させる必要はない」
 これがモールス通信に新時代を切り開く契機となった。
 ジョージ・グラマー(George Grammer)(W1DF)が米国QST誌5月号に2本の真空管を用いた「費用が掛からないエレクトロニック・キー」(An Inexpensive Electronic Key)を発表。
堀口文雄(J5CC)が日本人初、世界で2人目のWAZを達成。
◆1941年
 このRNZAFウィグラムキー(RNZAF Key - The Wigram Key)は1941年の作。第二次世界大戦前のニュージーランドは、電鍵などの通信装置をイギリスから輸入していた。しかし1940年代に入ると、ニュージーランド・ロイヤル空軍(RNZAF、The Royal New Zealand Air Force)は、各地の空軍基地で使う電鍵が全く足りず、深刻な電鍵不足に陥った。このため職業訓練校の生徒たちが駆り出されて試験的に電鍵を製作した。これがウィグラムキーである。RNZAF ウィグラムキーは終戦寸前まで製作されていたと伝えられる。

RNZAFウィグラムキー

 © ZL2BBB

新井信雄(J2UA)が局免許を取得、戦前最後の個人局となった。


◆1942年
ハリー・ターナー(W9YZE)が11月9日に米国ミズーリ州で、ハンドキーを用いて 35 w.p.m. を叩き出し、モールス打鍵速度記録保持者となる。その後、誰もこの記録を破れず、1981年にギネスブックに載った。
このころイタリアのスパイが潜伏先で諜報活動のために使っていた電鍵システム。


© IK6BAK

米国ロベットガルシュー・エレクトロメディカル研究所(Lovett Garceau Electro-Medical Laboratory)がエレクトロニック・キーヤーを開発。
米国カリフォルニア州で日系人が強制収容。


◆1945年
8月15日、第二次世界大戦が終戦。11月15日、ARRLのDXCCが再開(当時は274カントリー)
◆1946年
GHQ(連合軍総司令部)にアマチュア無線の再開を請願、JARL側から八木アンテナの発明者八木秀次らが出席。
東京・新橋でJARL戦後第一回大会(再結成全国大会)が開かれ、会長に八木秀次、理事長に矢木太郎(J2GX)が就任。
CQ誌の第一号が9月にJARLの機関誌として創刊され、定価4円で約3,000部を発行。
◆1947年
12月、ウィリアム・ショックレー(1910〜1989年)らが米国ニューヨーク市近郊のベル研究所(直前までベル電話研究所)の実験室でゲルマニウムの結晶に増幅現象を発見した(点接触トランジスタの発見)。
ノルウェーの人類学者で探検家のヘイエルダールが、いかだの「コンチキ号」("Kon Tiki":コールサインはLI2B)で漂流航海を決行。太平洋を101日間漂流したが、この航海には5人のクルーが同乗し、その中にノルウェー人のクヌート(Knut Haugland:LA3KY)とトルステイン(Torstein Raaby)の二人の無線家がいた。漂流中の101日間、太平洋の気象データと海洋学のデータをアマチュア無線で世界中のハムを通じてアメリカに送信した。スケジュール交信の相手を引き受けたのは、W1AWをはじめとするアメリカ局だった。
◆1948年
歴史的なDXペディション「ゴン・ワキ VP7NG DXペディション」(Gon-Waki Pedition)が「ARRL国際DXコンテスト 1948」(ARRL International DX Contest 1948)に参加する形でバハマ諸島にて運用された。メイン・オペレーターは、故ロバート・デニストン元ARRL会長(任期は1966〜1972年)、愛称はボブ(Robert W. Denniston / "Bob" Denniston)、コールサインはW0NWX。この偉業でボブは「近代的DXペディションの父」と呼ばれるようになった。ちなみに"Gon-Waki"とは、前年におこなわれた"Kon Tiki"のパロディだという。
 エレクトリック・アイ・エクイップメント社(Electric Eye Equipment Co.)が、パドルで打鍵する方式のエレクトロニック・キーヤーの「モンキー」(Mon-Key)を発表。これが電鍵史上初のエレクトロニック・キーヤーの製品版となった。モンキーは世界初の真空管製エレクトロニック・キーヤーと目されている。


© N4XY

バートレット(F.A. Bartlett)(W6OWP)が米国QST誌10月号に「エレクトロニック・キーヤーの未来展望」(Further Advances in Electronic Keyer Design)を発表。


◆1949年
初期の八木アンテナを基本にして改良を加えたビームアンテナ「ZLスペシャル」(Zl Special Yagi Antenna)がニュージーランド(ZL)のアマチュア無線家、故ジョージ・プリチャード氏(ZL3MH、後にZL2OQ)により発表された。初作は2エレメントだった。
6月1日の省庁改革で逓信省が2分割されたのに伴い発足した電気通信省のもとで電波庁が新設されたが、その地方支分部局として「地方電波管理局」が日本全国の10か所に設置された。
◆1950年
パドルで打鍵する方式のエレクトロニック・キーヤー「エレクトロニック・キー モデルEE-3」(Electronic Key" Model EE-3 paddle/keyer)をエルディコ(Eldico)が開発。

この年から15年間、イタリア軍通信隊のために製造されていたパガーニ(Pagani)の電鍵。

© IK6BAK

6月1日、電波法が施行、電波庁が廃止され、その業務を総理府の電波監理委員会に移したうえ「地方電波監理局」を設置した。


◆1951年
ロイ・ブラン(Roy Brann、W6DPU)が米国QST誌2月号に「理想のエレクトロニック・キーを追求する」(In Search of the Ideal Electronic Key)を発表。
バートレット(F.A. Bartlett)(W6OWP)が米国QST誌12月号にバグキーを用いた「小型自動電鍵の設計」(Compact Automatic Key Design)を発表。
日本で第1回アマチュア無線技士国家試験を実施、1級47人,2級59人が合格。
◆1952年
デイトン・アマチュア無線協会(DARA:Dayton Amateur Radio Association)が米国各州をはじめ世界中からアマチュア無線家を迎えて毎年開催するハムフェア「Dayton Hamvention」を始める。
戦後初のアマチュア無線局が誕生(同年末までに96の本免許局)。
◆1953年
ジョン・ケイ(John Kaye)(W6SRY)が米国QST誌2月号に「アルティマティック(Ultimatic)〜メモリーできる電鍵」(The Ultimatic--The Keyer with a Memory)を紹介。これが最初のメモリーキーヤーとなった。
日本で第1回QSOパーティ、第1回VHFコンテストを開催。
◆1954年
CQ出版株式会社(通称はCQ出版社)(本社 〒170-8461 東京都豊島区巣鴨1-14-2 電話 03-5395-2111 )が創業、CQ誌の発行元となる。
信越地方のコールエリアが「φ」に、北陸地方が「9」に変更。
庄野久男(JA1AA)が日本人としては戦後初のDXCC達成。
アイコムの創業者、井上徳造がJA3FAを開局し、海外で「Mr. ICOM」と呼ばれるようになった。
◆1955年
IARUがJARLの復帰を承認。
東国無線高等学校で校長名義による実験アマチュア無線局が開局し、それから間もなく韓国アマチュア無線連盟KARL(Korea Amateur Radio League)の創立総会が、東国無線高等学校で開かれた。
単行本型式の「コールブック」をCQ出版社が創刊。
◆1956年
南極観測船「宗谷」が日本を出発、作間敏夫(JA1JG)が搭乗。
◆1957年
JA1AEQ(阿部 芙美氏)、JA1YL(菅 邦氏)、JAφEC(小林 きみ氏・故人)の3人がJLRS(ジャパン・レディズ・ラジオ・ソサエティ))を設立した。
◆1958年
日本の電波法の一部が改正され、電信級と電話級のアマチュア無線技士資格が誕生、加えて従事者免許が終身資格に。
◆1959年
 5月にW9TOがトランジスタを用いた初のキーヤーを開発(ARRL50年史の102/129/140ページに掲載)。
 米国ニューヨーク州バビロンのパウセル・エレクトロニクス社(Poucel Electronics)がエレクトロニック・キーの「EL-Key」を製品化した。パウセル・エレクトロニクス社の創業者はR.E.パウセル(R.E. Poucel、W2AYJ)。

EL-Key

 © ARTIFAX BOOKS

電信・電話級のアマチュア無線技士の第1回国家試験が実施され、16,791人の受験者の大半が電話級だった。
JARLが社団法人となる。
クラブ局(社団局)が制度化された。


◆1960年代の始まり
第二次世界大戦が終わり、アマチュア無線がどんどん盛んになると同時に、無線機の自作派が増え、電信の分野ではエレクトロニクスを応用したモールス通信技術が注目されるにつけ、結局はハンドキーよりもパドルのほうに優位性があるという共通認識が広まっていった。AMフォーンではSSBが注目された。1960年代は、そのような風潮とともに幕を開けた。
1960年、米国カリフォルニア州ニューポートビーチのエレクトロ・フィジックス社(Electrophysics Corporation)が「オートロニック・キー」(Autronic Key)というシングルレバー・パドルを16.95ドルで発売して注目された。
オートロニックをデザインしたのはジョン・ジャコスキー(W6QJR)と、その息子のジョン・ジャコスキー・ジュニア(K6ONJ)だった。オートロニックは鋳型の基台を採用し、また一対のアームと旋回軸の組み合わせでメインレバーとは独立して左右に動いた。

オートロニック・キー

 © N6TT


◆1960年
伝説の名機「コリンズKWM-2」がリリース。1,095ドル(当時のレート360円/1$で約40万円)だった。
米国出身のマーシャル・モラン神父が、ネパール初で唯一の永久ハム資格を取得し、首都カトマンズに 9N1MM局のシャックを設置した。
バイブロプレックス社が自社のバグキーの部品を利用したシングルレバー・パドルの「バイブロキーヤー」(Vibro-Keyer)を発表。

バイブロキーヤー

3月、トランジスタで組み立てたキーヤー「Magkee」が登場。同年9月に「アルティマティック」となる。
1960年から1970年にかけてハリクラフター社(Hallicrafters)が「HA-1」を皮切りにHAシリーズのエレクトロニック・キーヤーを市場投入。
AMモードでSSBへの移行が世界的に始まりを見せる。
日本初のクラブ局JA1YAAが逓信博物館に設置された。


◆1961年
12月12日(米国時間)、米国西海岸のグループ
「プロジェクト・オスカー」(Project OSCAR)が初のアマチュア衛星「オスカー」(OSCAR-1)を打ち上げた。
本土復帰前の沖縄で初の日本人局KR8AB(石橋勇)に免許が交付される。
JARLがサブバンドを制定した。
◆1962年
揺り軸と針状の接点を組み合わせたパドルが登場。米国オハイオ州デイトンのジョセフ・ヒルズ(Joseph A. Hills、W8FYO)がデザインした。これはFYO型と呼ばれてベンチャー(Bencher)社の製品に採用され、一世を風靡することになる。現在もベンチャーのBY-1/2/3やMFJ社などの製品に生き続けている。

初期のFYO型パドル

by ARRL

ナイキー(Nikey、W1IMQ)が初のiambic方式パドルを開発。
堀江謙一が外洋ヨットで単独太平洋横断に成功、米国カリフォルニア州サンフランシスコ港に入港。
スイス・ジュネーブにあるITU(国際電気通信連合)本部ビルに国籍を問わずゲスト運用できる 4U1ITU 局を設置、さっそく米田治雄(JA1ANG)が日本人初の運用をおこなった。
八重洲無線が国産初の本格的なSSB送信機「FL-20」(HF帯)をリリース。


◆1963年
伝説的 DX-peditioner の米国イリノイ州シカゴ出身のドン・ミラー(Donald Alan Miller、W9WNV、その後はAE6IY)が2月に北太平洋・マリアナ諸島のロタ島(当時は米国信託統治領)でDXペディションをおこなった。
米国初の「エベレスト米国遠征隊」(U.S. Mount Everest expedition)の基地で米国出身のマーシャル・モラン神父が「W5IXP」のコールサインによりコンタクト役を務めて成功した。
パウセル・エレクトロニクス社のエレクトロニック・キーの「EL-Key」が販売を停止した。
カリフォルニア州ニューポートビーチで開発・発売されたオートロニック・キー(シングルレバー・パドル)の特許が認められた。
◆1964年
バリー・モリス・ゴールドウォーター(K7UGA)が共和党の大統領候補として出馬した(落選)。
ミズーリ州セントルイスのブラウンブラザース・マシン社(Brown Brothers Machine CO.)がピボット(回転軸)型のストレートキーとパドルを発表。後にBTLシリーズのパドルがヒット商品になった。

ブラウン兄弟の一人ビル・ブラウンが設計したBTL iambicパドル(1964年製)

 © N6TT

アマチュアバンドに430MHz帯の割り当てが決まる。
新潟大震災が発生、アマチュア無線を含む非常通信網が組織された。
ヨットの海洋冒険家、鹿島郁夫(JA3MYK)が10月に「コラーサI世号」で大西洋単独横断へと出発。


◆1965年
アマチュア衛星オスカー3号が米国から打上げられたが、2週間で機能を停止したため、通信に成功したのは欧米の数局にとどまる。
マイクロスイッチを用いたシングルパドルキーヤーの組み立てキット「HD-10」をヒースキット社(Heathkit)が発表。爆発的に売れた。
パロマー(Palomar)が半導体集積回路のICを用いた史上初のエレクトロニック・キーヤーをブラウンブラザース・マシン社(後にHAM-KEYへ)のパドルと組み合わせて販売開始。
◆1966年
日本で初めて、アマチュア無線技士をめざす人たちのための養成課程講習会が開催された。
個人局向けのJA1の3文字コールが尽きてJH1AAAから割り当てられ始める。
◆1967年
 H.G.ゲンスラー(H.G. Gensler、K8OCO)が「アイアムビマティック」(Iambimatic)という名の方式を初めて唱えた。この方式が今日の「アイアムビック」(iambic)である。
 オメガエレクトロニクス社(Omega Electronics)が「DAキーヤー」というパドル・キーヤーを新発売。
◆1968年
カリフォルニア州ニューポートビーチで製造されていたオートロニック(Autronic)のパドルとキーヤーが製造停止。
ジョン・カーチス(John Curtis)がカーチス・エレクトロデバイス社(Curtis Electro Devices)を設立。第一号の製品として「EK38キーヤー」を発表。
テンテック社(Ten-Tec)が設立された。 12月、JARLが旧版のアマチュア無線ハンドブックの初版を発行。
◆1969年
米国の首都ワシントンDCで教育団体としてアマチュア衛星通信協会(AMSAT:The Radio Amateur Satellite Corporation)が発足した。
テンテック社が続々と新製品の各種電鍵を開発中と発表。
小笠原諸島・南鳥島に「JD1」が割り当てられる、DXCCからJAとは別のカントリーとされる。
◆1970年
1970年代、エレクトロニック・キーヤー用の半導体回路を開発した米国カーチス(Curtis)社の製品が「iambic Aモード」と呼ばれ、他方、WB4VVFが米国QST誌に投稿したアキュー・キーヤー(Accu-keyer)が「iambic Bモード」と呼ばれたことによりAモード(カーチス・キーヤー)とBモード(アキュー・キーヤー)の2方式が定着した。
テンテック社が比較的低価格なKRシリーズの製品概要を発表。

KR1B

 © N4EKV

大阪世界万国博会場で記念局のJA3XPO局が運用。
JARLが「WACA」「HAJA」などのアワードを追加した。
1969〜1972年に在日アメリカ大使として在任していたアーミン・マイヤー(W3ACE)が、クラブ局JH1YDRで運用、日本における外国人の運用第1号となる。


◆1971年
ジム・ギャレット(Jim Garrett、WB4VVF)がエレクトロニック・キーヤーの「Accu-Keyer」を製作。
◆1972年
周波数表示がヘルツ(Hz)に代わった。ITU主管庁会議が決めたものだが、「サイクル」「キロサイクル」という言い方に慣れきっていた世界中のアマチュア無線家たちが長い間、戸惑った。
Martin F. Jue (K5FLU)がMFJ社を創業した。
沖縄が本土に復帰して「KR8」が「JR6」になる。
◆1973年
コリンズ・ラジオ社(Collins Radio Company)が、 同じアイオワ州の米国ロックウェル社(Rocwell International)に買収された。
戦後の日本にアマチュア無線が復活した事を祝う「アマチュア無線の日」が毎年7月29日であることが制定された。
◆1974年
このころから「協定世界時」(UTC:Coordinated Universal Time)が、「グリニッジ標準時」(GMT:Greenwich Mean Time)に代わって広く使われるようになった。
 ブラウンブラザース・マシン社がピボット型からバネ方式へと転換。
◆1975年
 ミズーリ州セントルイスのハムラジオセンター社(HAM RADIO CENTER Inc.)がHAM-KEYというブランド名でパドルやキーヤーや縦振れ電鍵を続々と製品化。


 © N6TT

プラスチックを素材とした電鍵が初めて登場。
テレテック(Teletek)がFYO型iambic方式の電鍵を開発、ベンチャー(Bencher)社に売却。
松本得朗(JA7AO)が世界初の6バンドWACを達成。


◆1977年
ARRL(米国無線中継連盟)が「サテライトDXCC」の発行を始める。
144MHz帯で、ベネズエラ(YV5ZZ)とアルゼンチン(LU1DAU)が赤道横断伝搬(TEP)に成功した。
ベンチャー社がテレテックの技術を元にパドルを発売。
◆1978年
旧ソ連としては初めてのアマチュア衛星「RS-1,RS-2」(Radio Sputnik 1, 2)の打ち上げに成功した。
米国カリフォルニア州ユーレカのハムコ(HAMCO)が、ハル(HAL)から電鍵製造技術を買収。
事業家のピーター・ガルソウ(Peter Garsoe)がバイブロプレックスを買収。これに伴い、バイブロプレックスはニューヨーク・マンハッタンから、同じ東海岸の港町メイン州ポートランドへ移転。
今日のパドルの基礎を築いたアリゾナ州フェニックスのジョセフ・ヒルズ(Joseph A. Hills、W8FYO)が他界。そのサイレントキーが電波を通じて米国のアマチュア無線界に流れ、多くのCW'erが悲しんだ。
◆1979年
スイス・ジュネーブで「WARC-79」が開催された。これはアマチュア無線界にとって歴史的な世界無線通信主管庁会議(WARC:World administrative radio conference)の集まり。この席上、アマチュア無線の革新と発展に関する多くの意見交換がおこなわれ、その中でも10/18/24MHzや40GHz帯以上の新しいアマチュアバンドを獲得したほか、アマチュア衛星用の周波数帯を拡大するなど、大きな成果を上げた。WARCは1993年まで電波の周波数割当を決めていた。
半自動のバグキーに固執していたバイブロプレックス社がiambic方式のパドルを市場に投入。


 © N6TT

ブラウンブラザース・マシン社(Brown Brothers Machine Co.)が電鍵の生産を停止。
郡を対象とした「JCGアワード」の発行が始まる。これを記念して「JCG制定記念コンテスト」が開催された。
2月7日、JARLの会員数が10万人を突破した。


◆1980年
このころからHS-CW(高速CW通信)の愛好家が現れ始め、HS-CWによる流星散乱通信(MS:Meteor Scatter communication)が流行し始めた。
◆1981年
米国がアマチュア衛星「UoSAT-OSCAR UO-9」の打ち上げに成功する。
1978年に続き旧ソ連がアマチュア衛星「RS-3〜RS-8」(Radio Sputnik 3〜8)の打ち上げに成功した。
JARLが「AJA オール・ジャパン・アワード」の発行を始める。
日本国内のアマチュア局が50万局を越える。
「日本アマチュアファクシミリ協会」(JAFA)が全国横断的に結成された。
◆1982年
6月26日、WA7GXD(Lyle Johnson) と KD2S(Den Connors)がアマチュア・パケット無線の初交信に成功した。
FYO型キーのパテントが解禁に。
FYO型のブラスレーサー(Brass Racer)をバイブロプレックス社が市場に投入。
ケント社がイギリス北西部に新社屋を建設して移転。ストレートキーの製造を開始。
日本で10MHz帯が4月から使えるようになった。
中国のアマチュア無線の運用が再開された。BY1PKがHF帯で運用。
中国から伝わってきた国際ルールによるフォックス・ハンティング競技を、日本のJARLが「FOX テーリング」として命名した。
◆1983年
オーウェン・ギャリオット(W5LFL)がスペースラブ任務の一環としてNASAのスペースシャトル「コロンビア号」(STS-9)に乗り組み、宇宙からアマチュア無線の電波を出した世界初のハムとなる。
6月16日(現地時間)、「AMSAT-OSCAR 10」(AO-10)が仏領ギアナのクール(Kourou)基地からアリアン・ロケット 1-06(ARIANE 1-06)で打ち上げられた。
米国のアマチュアバンドで14MHzのフォーンバンドが拡大される。
ボブ・シュラウィナー(WA0UZO)とポール・ペイジェル(N1FB)のコンビが米国QST誌12月号に「半導体チップ上のCW」(CW on a Chip)を発表。エレクトロニック・キーヤーの普及に拍車をかけた。
◆1984年
米国で「UoSAT-OSCAR UO-11」の打ち上げに成功する。
◆1985年
トニー・イングランド宇宙飛行士(WφORE)がスペースシャトル「チャレンジャー号」から運用。
ハムキー(HAM-KEY)が電鍵の生産を停止して米国内外の市場から撤退。
日本の地方電波監理局が「地方電気通信監理局」となった。
日本とアメリカとの相互運用が実現し、発効した。
日本で“空きコールサイン”の再割り当てが始まる。
梶井謙一・元JARL理事長(JA1FG、前はJ3CC)がサイレントキーに。
◆1986年
8月13日にJARLが種子島宇宙センターから国産初のアマチュア衛星「Fuji-Oscar 12」(FO-12)を宇宙開発事業団(NASDA)の「H1ロケット」で打ち上げた。
ケント社がパドルの製造も開始。
日本と西ドイツが相互免許を実施。
◆1987年
旧ソ連がアマチュア衛星「RS10,RS11」の打ち上げに成功した。
日本とオーストラリアの相互運用が発効した。
日本とフランスの相互運用が合意、発効した。
夏に「FOX テーリング」の第一回全国大会が144MHz帯でおこなわれた。
◆1988年
6月15日(現地時間)、AO-13(AMSAT-OSCAR 13)が仏領ギアナのクール(Kourou)基地からアリアン・ロケット 4(ARIANE-4)で打ち上げられた。AO-13は自力で計画通りの軌道に乗ることに成功した初のアマチュア衛星になった。
アメリカと西ドイツが開発協力したアマチュア衛星「オスカー13(AO13)」の打ち上げに成功。
日本で旧コールサインを復活するための特別措置の受付が始まった。
今給黎教子(JJ6PPT)が6月11日にヨット「海連垂乳根<かいれんたらちね>」で鹿児島を出発、サンフランシスコとの間を往復した。女性では世界初の太平洋単独往復。
◆1989年
国産初のアマチュア衛星「Fuji-Oscar 12」(FO-12)が11月に運用を終えた。
18MHz帯と24MHz帯が日本でも7月から使えるようになった。
◆1990年
東西ドイツの統一に伴い、旧西ドイツと旧東ドイツのアマチュア無線団体が合併を協議、旧西ドイツ側に合併へ。現在は
ドイツ・アマチュア無線クラブ(DARC:Deutscher Amateur-Radio Club)に。
6個のアマチュア衛星「マイクロサットA,B,C,D」と「UoSAT-D,UoSAT-E」を搭載したアリアン(ARIANE)の打ち上げと軌道入りが成功。
トム・フレンチ(Tom French、W1IMQ)が米国マサチュセッツ州で「アーティファクス・ブックス」(Artifax Books)を創業。
電波法の一部が改正され、電信級が第三級アマチュア無線技士に,電話級が第四級アマチュア無線技士と名称変更した。
国産初のアマチュア衛星「FO-12」に続くJARLの2号機「Fuji-Oscar 20」(FO-20:ふじ2号:Fuji 2)を2月7日に打ち上げた。
日本のアマチュア無線局の数が初めて100万局を突破した。
大阪で第1回のPANEL「全国パケット・アマチュア・ラジオ・ネットワーク代表者連絡協議会」(Packet Amateur radio Network Excellence Leaders comference)が開かれた。
◆1991年
アルバニア初のアマチュア無線局 ZA1A が開局。
JARLクラブ局のJA1YAAが東京・巣鴨のJARL展示室で公開運用を始める。
財団法人JARD(日本アマチュア無線振興協会)が設立された。
JARL南極局「8J1RL」で、越冬隊員の有沢豊志(JA4EDV)がアマチュア衛星「ふじ2号」を介して交信に成功した。
日本で最初の女性ハム、鈴木千代乃(旧姓杉田、JH1WKS、前はJ2IXとJ1DN)がサイレントキーに。
◆1992年
9月12日、宇宙飛行士でアマチュア無線家の毛利衛(7L2NJY)がスペースシャトル「エンデバー号」に搭乗科学技術者(ペイロード・スペシャリスト)として日本人としては初めてスペースシャトルに搭乗した。
Abdul Jabbar Marafie(9K2DZ)が、イラクのクウェート侵攻以降もクウェートに留まって情報を発し続けた功労により「ARRL国際人道主義賞」(ARRL Humanitarian Award)の栄誉を受けた。
韓国がアマチュア衛星「ウリピョル1号」(わが星)の打ち上げに成功した。
1992年ごろから日本でATV(アマチュア・テレビジョン)が帯域幅の広い1200MHz以上の周波数帯でおこなわれるようになった。
電鍵コレクターのリン・バーリンゲイム(N7CFO)が「キーレター」の発行をスタート。
米国マサチュセッツ州のアーティファクス・ブックス社が、トム・フレンチ(Tom French、W1IMQ)を著者とする「電鍵コレクターガイドシリーズ」(key collectors' books)の刊行をスタート。初年度は、サミュエル・モールスを助けたアルフレッド・ベイルにちなんで「ベイル・コレスポンダント電鍵コレクター」(The Vail Correspondent [TVC] key collectors' quarterly journal)という季刊誌を立ち上げた。トム・フレンチは自らアーティファクス・ブックス社を経営したが、その趣味は電鍵コレクションと電鍵史研究とアマチュア無線だという。
◆1993年
電波の周波数割当を決める国際会議のWARC(世界無線通信主管庁会議)の業務を「世界無線通信会議」(WRC:World Radio communication Conference)が引き継いだ。主管機関は「国際電気通信連合」(ITU)である。
ARRLがDXCCリストからチェコスロバキアを抹消し、新しくマケドニア(4N5, TU5)とチェコ(OK, OL)とスロバキア(OM)を追加した。
フランスがアマチュア衛星「アルセーヌ」(ARSENE)の打ち上げに成功した。
米国MFJ社がMFJ-564というベンチャー型のパドルを台湾で生産開始。
◆1994年
南極圏内の無人島、ピーターI世島で二回目のDXペディション(3YφPI)。
3月1日で消滅カントリー(消滅エンティティ)となる Penguin Is. から「ZSφX」のコールサインで消滅寸前の数日前から運用(V51BI, DJ6JC, DJ6SIら)
ミッチの愛称で知られるフェルトン・ミッチェル(S. Felton Mitchell、W4OA[その前はWA4OSR])がガルソウからバイブロプレックス社を買収、米国アラバマ州モービル市に移転させて現在に至る。


◆1995年
1月17日、阪神・淡路大震災が発生、アマチュア無線を含む非常通信網が組織された。JARLは阪神大震災の救援金受付を開始した。JAIA(日本アマチュア無線機器工業会)はJARLと協力して多数のハンディ機を神戸、大阪などの被災地に緊急輸送した。この大地震を教訓にして東海地震に備えようとJARL静岡県支部は静岡県警に協力し「アマチュア無線による災害情報の提供に関する協定」を全国で初めて締結した。
ミャンマー・ヤンゴンからXZ1Aが運用(JA1BK,N7FUV,N7NG,OHφXX,OH2BH)。
◆1996年
AMSAT-OSCAR 13(AO-13)が12月5日、大気圏へ再突入した。
フェルトン・ミッチェルがバイブロプレックス社の新しい経営者になって初めての新製品「スクエアレーサー」を発表。
◆1997年
米国コロラド州デンバーにある世界最大クラスのモールス通信関連品の販売店モールス・エクスプレス(Morse Express)が、電鍵を世界の7ヵ国から輸入を開始。初年度で、電鍵だけで1,000個を超える売上高を記録した。経営者はマーシャル・エム(N1FN)。

モールス・エクスプレス


◆1998年
1月17日、ARRLの諮問機関「DXCC 2000」が新ルールを制定、カントリーをエンティティに改称し、3月31日に施行した。かつてDXCCはエンティティ(国家などの自主独立体)をカントリー(country / countries)と呼んでいた。
米国パロマ(Palomar)社が電鍵の製造を停止、33年間の歴史に幕を閉じた。
トム・ペレラ(Tom Perera、W1TP)が書いた「電鍵コレクターガイド」(Telegraph Collector's Guide)が発行された。
1992年にアーティファクス・ブックス社が立ち上げた季刊誌「ベイル・コレスポンダント電鍵コレクター」が、夏の第24号で廃刊に。
◆2000年
日本で1.8/1.9MHz帯が2000年4月から利用可能に。
◆2001年
1月6日、日本の省庁改革により、地方電気通信監理局は総務省のもとで「総合通信局」となり、同時に沖縄郵政管理事務所も総務省のもとで「沖縄総合通信事務所」となって現在に至る。
7月23日の改正で7K〜7Nが関東エリア(JA1AB*などのコールエリア)に割り当てられた。1〜4のエリア番号は全て1エリア(東京 神奈川 埼玉 千葉 茨城 栃木 群馬 山梨)。
◆2002年
6月7日、宣教師ハムのマーチン・バーナム夫妻がテロリストに殺害された。
ARRLがその犠牲を悼んでいる
◆2003年
10月に独立行政法人JAXA(宇宙航空研究開発機構:ジャクサ)が発足。宇宙科学研究所(ISAS)、航空宇宙技術研究所(NAL)、宇宙開発事業団(NASDA)を一つに統合して日本唯一の宇宙航空開発・研究をおこなう機関となった。
◆2005年
4月18日が、2005年にIARU(国際アマチュア無線連合)の結成80周年を記念して「世界アマチュア無線の日」とされた。
◆2007年
10月4日、世界初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げ(1957年10月4日)の50周年を記念してイギリスのJohn(G7HIA)とRobert(G8ATE)が記念局 GB5OSOを立ち上げた。
◆2009年
2007年現在、日本が所属する第3地域に割り当てられている7MHz帯は7000kHz-7100kHzのわずか100kHz幅しかないが、2009年には7000kHz-7200kHzに拡張される(世界無線会議<WRC-03>の決定事項)。この7MHz帯の拡大などのアマチュア局に関する規則等の改定は2009年3月17日に告示され、2009年3月30日に施行された

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